清法寺の縁起
宗派は禅宗の曹洞宗、山号は赤城山。本尊は如意輪観世音菩薩である。
創建は、天正四年(1576年)忍城主成田氏長の家老進藤清三郎が病没した娘の供養のため創建したと伝えられている。その為か当寺には薬師堂が建立されており良薬の仏として信仰を集める。寺の開山は行田市清善寺第五世天洲全堯大和尚。
朱印所
江戸時代、徳川幕府より寺領十三石を拝領していたため諸税が免除され、また 幕府の地方支配強化の一端を担った。
※慶安二年、徳川家光公時の御朱印状の文言・・・「武蔵国埼玉郡北根村清法寺領同村之内拾三石事、任先規寄附之訖全収納并寺中竹木諸役等免許如有来、永不可有相違物也 慶安二年十月十七日」
当山十四世 岸沢惟安大和尚(きしざわ いあん、1865年(慶応元年) - 1955年3月26日)は、僧侶・仏教学者。武蔵国(現埼玉県)生まれ。幼名は計之助。埼玉県師範学校卒業。小学校訓導を務めたあと、1897年西有穆山に就いて得度。丘宗潭にも師事、生涯を道元禅師の著された『正法眼蔵』の解明に尽くした。清法寺には明治三十七年より住職となる。その間、伊豆の修善寺・横浜の西有寺において修行僧育成に努める。その後、兵庫県の永源寺、京都府の安泰寺、青森県の法光寺を歴住し、静岡県志太郡豊田村(現焼津市)に旭伝院を開創した。大本山永平寺の眼蔵会の講師も13年間勤め、また五年間西堂という大役も勤めた。
寺寶
東照宮御召羽織一。地は純子或はもほるの類にして、染は濃き茶色の如く模様に 花鳥の如くなるものを織出せり。裏は柿茶色なり。鴻臺村の民勘右衛門が家より當寺へ納むと云、勘右衛門が先祖内藤玄蕃は、足利家の浪人なり、或時東照宮御放鷹の先にて拝謁し奉り、此御羽織并玉銀を賜はれり、玄蕃が子孫當寺の住僧と成しものあり、其因によりて當寺へ納むと云、玉銀は今に彼が家にて所蔵せり。(新編武蔵風土記稿)
※東照宮とは徳川家康のこと。
鷹橋<たかばし>と徳川家康<とくがわいえやす>について